2019-03-13 (Wed) 11:46 ✎
今でこそ違いますが、東日本大震災以後の数年間は、東日本に行った経験のあるなしが学生たちにとっては(学生だけに限らないけど)大きなことだったようです。
瓦礫が撤去されていくにつれ、行ったことのない方には、焦りや劣等感すら感じていたようです。
東日本でボランティアに尽力したり、視察をした方々は、被災者の生の叫びを聞いて現場を見て、またそれを遠くの人々に伝え、あらなる支援の力を集めたりと多大な貢献をしてくれていました(今も引き続きしてくれてます)。
彼らは「実際に見ると本当に想像を遥かに超えて衝撃的だった」「現場に立たないとわからないところもやっぱりあるんです、なんとか見に行って欲しい」と訴えていました。
そのとおりだと思います。
仕事だって、到津の森公園だって、ゴキブリだって、実際に見たり行ったり現場に立たっりする前と後では見え方が変わってきます。。それはこのブログの主旨でもあります。だから動物園行こうぜ!w
でも行くと失うものもあるんぜ?
東北に行ってしまうと、あの何とも言えない「焦り」や「劣等感」は失われる。少なくとも目減りする。
当時僕が学生によく言っていたことがあります。
「君たちが震災を風化させないためのキーパーソンやよ?」
「地震の爪痕は消えないかもしれない、でも数年後にはおそらく瓦礫くらいはなくなる。あの日以降生まれた子供たちは全員震災を(身内の被災はあっても)直接は知らない。年月が経てば経つほど、直接知らない人が増えるし、やがて知らない人だけになる。直接知らない者同士だから、似た境遇だからこそ、伝わることがある。
あえて言うけど、東北に行ってしまった人、被災した方にはできない支援が、僕らにはできるんよ」
あえて言うけど、東北に行ってしまった人、被災した方にはできない支援が、僕らにはできるんよ」
口から出まかせみたいなものだけど、わりと本気でした。今でもそう思っています。
一昨日の日記「長男(9歳)のようなそのとき生まれていたけど体験のない者、そして次男(2歳)のように311には生まれていなかったけど後には同時代の人とみなされる者の役割は大きい。と僕は思っています。」の回答(補足)でした。
もう一点。
ボランティアに行けないとか、義援金もたいして出せないと悶々としている学生もわりといましたね。でもさ、支援の方法だってひとつじゃねーです。
「今できる支援」もあるけど、今は直接何もできないけど「未来のために種を蒔く支援」もあります。
たいていの子育て支援者の前には、子供やその家族がいます。
地球ではいつでも自然災害が起こりうるようですね。
だったら、いつか僕たちの前に未曾有の大災害が再び(嫌だけど)起こってしまったとき、成長した未来のこの子が、たとえ一旦挫けても、また前を向いて立ち上がれる心を育むことの手助けはできるはず。
目の前のことに真摯に取り組むことが、震災支援になりうるし、未来を支えるんですね。
結論が当たり前すぎてびっくり。
ちなみにその後、僕は東北に行ってしまいました。
もう僕には残念ながら「君たち」と同じ支援はできない。健闘を祈る。
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[Tag] * 震災
最終更新日 : 2019-03-13