2012-04-15 (Sun) 00:08 ✎
以下は「ひろば北九州」内の連載を書き写したものです。
なんでそんなことやってんの? ですって?
なんででしょうね(笑)
理由を一生懸命考えてみました。→結果
今回は「ZOOっとそばに到津の森」(「ひろば北九州」2010年4月号)分!
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「重厚な樹木に囲まれた空間が・・・」
文:到津の森公園園長 岩野俊郎

言うまでもなく「到津の森公園」の前身は「到津遊園」である。
今から30数年前に私は到津の森公園に身を置き、動物園以外のことを知らずに歩き続けてきた。長いともなく、短いともなく。しかし、時代は同じものを求めていないことを10年前に知った。
到津遊園の閉鎖である。進化し続けることの難しさと伝統に縛られる頑なさとに押し潰されてしまった。時代は動物園に何を求めているのだろうか。もはやこの時代は動物園の存在そのものを許さないのだろうか。
遊園地付属の動物園から「公園」へと転身したことは今までの考えをすべて否定することから始まった。
文化、歴史、価値観、目的、教育、そして継続性。そのすべてのものを一から構築しなくてはならない。いっそその方が楽なのだということが後から分かった。当時は闇の中の手探り状態だった。
しかし、そのような中、同じ思いを経験した友人がいたことは心強かった。当時の旭川市旭山動物園の小菅正夫園長である。彼から何か具体的なアドバイスをもらったわけではないが、その存在だけで十分である。やがて旭山動物園は天下の脚光を浴びることとなる。一つのモデルが出来上がった。それを彼は「行動展示」と言う。何も彼の物まねをする必要がないのだと悟るのにそれほど長い時間は要らなかった。私から見れば彼が展開したのは他でもない、「独自性」というキーワードただ一つ。
冬の長い北海道と四季のはっきりした九州。同じ事をしたとしても、同じ結果が出ないことは明白である。
四季。
春、穏やかな芽吹きとたおやかな風。夏、涼やかな木立と照りつける日差し。秋、山を彩る紅葉や銀杏と木立をぬける空気の爽やかさ。冬、固く身を閉じる木々の芽と吹き抜ける北風・・・・・・。到津には四季の移ろいがある。今まで到津を見守ってきた抱えるほどの幹をもつ樹木の重厚さがある。
そうだ、到津は木々に護られた公園なのだ。
日本人の豊かな情感を育ててきた樹木に囲まれたこの空間こそ大切にすべきことなのだ。
動物園の中に木立があるのではない。木立の中に動物たちが生活するのだ。人はそれを「生態展示」と言うけれど、それを実現するのは簡単なことではない。なぜなら、生態系を再現するほど広大な土地の持ち合わせはないのだから。擬似的な展示はあくまで疑似でしかない。一般的にはそれを偽物という。
ここでまったく新しい感覚が必要となってくる。それは日本人が築いてきた庭園に似ている。日本庭園は庵から庭を絵として眺める。あたかも縁側にしつらえた屏風のように。つまり、庭は絵画なのである。人の手を際限なく入れて最高の絵画を描く。一点の曇りもなく。画竜点睛を欠いてはならない。
我々を取り巻く環境をそのように見ると、動物の生活環境を考慮することばかりに気を取られるのではなく、観客(客と言わなければならないのが寂しい)の視点が重要であることが分かる。
では、それは生態展示とどのように違うのだろうか。
生態展示とは何か。生態展示とは生物が生きてきた環境(生息環境)を真似て展示することである。だが、展示というヒト由来の行為でもって生息環境を作りだすということは、不可能な作業なのだ。その空間は生物の視線発生的増殖を不可能にするばかりでなく、基本ともいえる採食すら否定している。そのような環境を生息環境とは言わない。
もはや私たちが野生生物を飼育することすら許されない現実があることを踏まえて、その許されざる現状に敢えて一歩を踏み出す勇気が必要である。なぜなら、野生生物を含むこの自然環境はもはや猶予ならざるところに追い込まれているのだから。
つまり、従来の感覚で動物園を運営することはできない。いわゆる「展示」の限界を超えなければならない。見せ物の世界ではない。しかし、すべての観客に、すべての階層の人々に、我々の意思(自然界の現況)を伝えねばならない。
語れば分かってもらえるわけではないところに難しさが潜んでいる。が、私たちは猶予ならざる自然環境を訴える素晴らしいツールをもっている。それが動物園。このツールなしには現在進行している危機的状況を語れない。
机上の空論ではなく、ではどのように人々に訴えてゆくのか。私たちの語りたいものだけを園内に掲示すればよいのではない。人々が来園し、楽しんでもらえる環境を作り、解決すべき問題を共に考える場を作り出さなくてはならない。
「見せたい」という意識を捨てよう。一緒にこの空間を楽しんでもらおう。
楽しむ空間?
私たちは本当に動物園で楽しんだことがあるだろうか。あの狭い空間で「展示」された動物は幸せなのだろうか。いや「幸せ」と感じるのは誰なのだろうか・・・・・・。
■日本一美しい動物園を作る
理想とする動物園を考えるにあたって、前述した、いかにも、いかにも日本的な庭園を意識した。木、石、水、砂、苔・・・・・・。何一つ人の手が入っていないものはない。いかにも作為的である。そして、そのすべてが独立することなく関連性をもつ。このような庭のすべてのエレメントに作為が込められた空間は、世界のどこにも存在しない。私たちの文化の源である朝鮮半島にすら見られない庭園技術は「自然」を手の内とする。季御寧著『「縮み」志向の日本人』の中で、著者は日本人が内に、つまり小さなものに向かう志向があるという。日本庭園は日本人が理想とする「自然」なのである。
ともに日本人であることを意識しよう。我々が理想とする「自然」を作り上げる。決して理想は高くも遠くもない。
「私たちが理想とする『動物園』を作る」
誰の後押しもいらない。日本人という自覚さえあれば。
日本一美しい「動物園」を作る。
【到津の森公園(小倉北区上到津)】
前身は西鉄が経営する到津遊園。昭和7年開園。遊園地に併設された動物園として市民に親しまれたが、平成10年、経営難を理由に閉園方針を発表。だが、26万人分の存続署名が集まり、北九州市が引き継ぎ、平成14年、到津の森公園として再開。
自然に、動物に、人間にやさしいをコンセプトに、約100種500頭の動物を展示。また、「市民と自然を結ぶ窓口」として、市民がエサ代などを寄付できる制度、エサの準備などに協力する市民ボランティア制度もあり、市民と一体となった動物園づくりをしている。
web http://www.itozu-zoo.jp/
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<どうでもいい感想>
書き写しながら息を呑んだ。
「言葉を大事にしなさい」と、周囲の大人達が行ってくれた意味を噛み締めた。
正しい言葉とはかくも美しく力図よい。書き写しながら恍惚となりました。
言葉を大事にしようと思いました(笑)
なんでそんなことやってんの? ですって?
なんででしょうね(笑)
理由を一生懸命考えてみました。→結果
今回は「ZOOっとそばに到津の森」(「ひろば北九州」2010年4月号)分!
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「重厚な樹木に囲まれた空間が・・・」
文:到津の森公園園長 岩野俊郎

言うまでもなく「到津の森公園」の前身は「到津遊園」である。
今から30数年前に私は到津の森公園に身を置き、動物園以外のことを知らずに歩き続けてきた。長いともなく、短いともなく。しかし、時代は同じものを求めていないことを10年前に知った。
到津遊園の閉鎖である。進化し続けることの難しさと伝統に縛られる頑なさとに押し潰されてしまった。時代は動物園に何を求めているのだろうか。もはやこの時代は動物園の存在そのものを許さないのだろうか。
遊園地付属の動物園から「公園」へと転身したことは今までの考えをすべて否定することから始まった。
文化、歴史、価値観、目的、教育、そして継続性。そのすべてのものを一から構築しなくてはならない。いっそその方が楽なのだということが後から分かった。当時は闇の中の手探り状態だった。
しかし、そのような中、同じ思いを経験した友人がいたことは心強かった。当時の旭川市旭山動物園の小菅正夫園長である。彼から何か具体的なアドバイスをもらったわけではないが、その存在だけで十分である。やがて旭山動物園は天下の脚光を浴びることとなる。一つのモデルが出来上がった。それを彼は「行動展示」と言う。何も彼の物まねをする必要がないのだと悟るのにそれほど長い時間は要らなかった。私から見れば彼が展開したのは他でもない、「独自性」というキーワードただ一つ。
冬の長い北海道と四季のはっきりした九州。同じ事をしたとしても、同じ結果が出ないことは明白である。
四季。
春、穏やかな芽吹きとたおやかな風。夏、涼やかな木立と照りつける日差し。秋、山を彩る紅葉や銀杏と木立をぬける空気の爽やかさ。冬、固く身を閉じる木々の芽と吹き抜ける北風・・・・・・。到津には四季の移ろいがある。今まで到津を見守ってきた抱えるほどの幹をもつ樹木の重厚さがある。
そうだ、到津は木々に護られた公園なのだ。
日本人の豊かな情感を育ててきた樹木に囲まれたこの空間こそ大切にすべきことなのだ。
動物園の中に木立があるのではない。木立の中に動物たちが生活するのだ。人はそれを「生態展示」と言うけれど、それを実現するのは簡単なことではない。なぜなら、生態系を再現するほど広大な土地の持ち合わせはないのだから。擬似的な展示はあくまで疑似でしかない。一般的にはそれを偽物という。
ここでまったく新しい感覚が必要となってくる。それは日本人が築いてきた庭園に似ている。日本庭園は庵から庭を絵として眺める。あたかも縁側にしつらえた屏風のように。つまり、庭は絵画なのである。人の手を際限なく入れて最高の絵画を描く。一点の曇りもなく。画竜点睛を欠いてはならない。
我々を取り巻く環境をそのように見ると、動物の生活環境を考慮することばかりに気を取られるのではなく、観客(客と言わなければならないのが寂しい)の視点が重要であることが分かる。
では、それは生態展示とどのように違うのだろうか。
生態展示とは何か。生態展示とは生物が生きてきた環境(生息環境)を真似て展示することである。だが、展示というヒト由来の行為でもって生息環境を作りだすということは、不可能な作業なのだ。その空間は生物の視線発生的増殖を不可能にするばかりでなく、基本ともいえる採食すら否定している。そのような環境を生息環境とは言わない。
もはや私たちが野生生物を飼育することすら許されない現実があることを踏まえて、その許されざる現状に敢えて一歩を踏み出す勇気が必要である。なぜなら、野生生物を含むこの自然環境はもはや猶予ならざるところに追い込まれているのだから。
つまり、従来の感覚で動物園を運営することはできない。いわゆる「展示」の限界を超えなければならない。見せ物の世界ではない。しかし、すべての観客に、すべての階層の人々に、我々の意思(自然界の現況)を伝えねばならない。
語れば分かってもらえるわけではないところに難しさが潜んでいる。が、私たちは猶予ならざる自然環境を訴える素晴らしいツールをもっている。それが動物園。このツールなしには現在進行している危機的状況を語れない。
机上の空論ではなく、ではどのように人々に訴えてゆくのか。私たちの語りたいものだけを園内に掲示すればよいのではない。人々が来園し、楽しんでもらえる環境を作り、解決すべき問題を共に考える場を作り出さなくてはならない。
「見せたい」という意識を捨てよう。一緒にこの空間を楽しんでもらおう。
楽しむ空間?
私たちは本当に動物園で楽しんだことがあるだろうか。あの狭い空間で「展示」された動物は幸せなのだろうか。いや「幸せ」と感じるのは誰なのだろうか・・・・・・。
■日本一美しい動物園を作る
理想とする動物園を考えるにあたって、前述した、いかにも、いかにも日本的な庭園を意識した。木、石、水、砂、苔・・・・・・。何一つ人の手が入っていないものはない。いかにも作為的である。そして、そのすべてが独立することなく関連性をもつ。このような庭のすべてのエレメントに作為が込められた空間は、世界のどこにも存在しない。私たちの文化の源である朝鮮半島にすら見られない庭園技術は「自然」を手の内とする。季御寧著『「縮み」志向の日本人』の中で、著者は日本人が内に、つまり小さなものに向かう志向があるという。日本庭園は日本人が理想とする「自然」なのである。
ともに日本人であることを意識しよう。我々が理想とする「自然」を作り上げる。決して理想は高くも遠くもない。
「私たちが理想とする『動物園』を作る」
誰の後押しもいらない。日本人という自覚さえあれば。
日本一美しい「動物園」を作る。
【到津の森公園(小倉北区上到津)】
前身は西鉄が経営する到津遊園。昭和7年開園。遊園地に併設された動物園として市民に親しまれたが、平成10年、経営難を理由に閉園方針を発表。だが、26万人分の存続署名が集まり、北九州市が引き継ぎ、平成14年、到津の森公園として再開。
自然に、動物に、人間にやさしいをコンセプトに、約100種500頭の動物を展示。また、「市民と自然を結ぶ窓口」として、市民がエサ代などを寄付できる制度、エサの準備などに協力する市民ボランティア制度もあり、市民と一体となった動物園づくりをしている。
web http://www.itozu-zoo.jp/
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<どうでもいい感想>
書き写しながら息を呑んだ。
「言葉を大事にしなさい」と、周囲の大人達が行ってくれた意味を噛み締めた。
正しい言葉とはかくも美しく力図よい。書き写しながら恍惚となりました。
言葉を大事にしようと思いました(笑)
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最終更新日 : -0001-11-30